岩井 寛 先生


(いわいひろし)
先生は池見教授の依頼にお応えくださり、日本交流分析学会の設立準備の時期から発起人の一人としてご参加くださいました。また、学会の設立総会のときには、シンポジウム「交流分析と他の心理療法との関係について」の演者として講演され、交流分析は精神分析の要素と森田療法の要素―とくに対人恐怖治療において、森田療法の要素を併せもつことを論じておられます。
 先生は、交流分析の最も大きな特徴は、正統派精神分析のように治療者と患者によって構成される治療的密室で、言語のみを媒介として治療を進めるのではなく、現実における人間と人間の接触の中で治療を進めていくことである、というお考えをお持ちで、森田療法を行う上にも本法を併用できるとされました。
 神経質患者は一般に「かくあるべし」という理想と「かくある」という現実が合致せず、それが「完全欲のとらわれ」となって葛藤を感じるわけですが、CP が強く、“C”の創造面の包含がなく、“A”の自我状態が現実との間に不適応をきたしている状態であり、この状態の分析と自覚、そして交流の仕方を重視する治療の上に、さらに洞察を早める結果となり、治療的に好結果を得ることができる、というものです。
 また先生は、1982年2月の日本交流分析協会の研修会プログラム:TA研究コースにも講師としてご参加され、とくに人間の存在に及ぼす文化の影響を含めて、個人における P A C の発達の経過、自力と他力の統合などについて平易に解説されておられます。
 後年、先生は癌でお亡くなりになりましたが、医師として最後までご自分の病状、とくに精神状態を記録され、医学に貢献されたと伺っております。もちろん、交流分析は先生のご研究のごく一部を構成するものですが、「まことのセルフ」を生きることに徹せられた先生のご人生は、私どもに範をお示しくださったものと言えるのであります。


川上 澄 先生

(かわかみきよし)
 先生は弘前大学教育学部教授であり、また、心身医療、とくに消化器の心身症治療の第一人者であることは周知のことですが、また日本交流分析学会の創立者のお一人でもありました。
 先生は学会の第1回大会(昭和51年)のシンポジウムで、「医学における交流分析の応用」のテーマで講演されております。しかし、すでにそれ以前に、昭和49年7月という早い時期に第7回医学心理療法研究会―これは米子で開催されましたが、佐々木大輔先生とともに「実地医家のための心身医学的療法」として、交流分析の立場からご発表されておられます。
 弘大第一内科で出版された先生の追悼集の中で、奥様が、先生は「何ごとにも前向きで、チャレンジ精神旺盛で、決断が早く一度決めたことを翻すのが大嫌いであった」と述べておられますが、これは先生の交流分析への取り組みにも言えると思います。先生は遠方にもかかわらず、学会はもとより TAの講習会のためにも各地に出向かれ、ナース、コーメディカルを熱心に教育してくださいました。結婚式の折りなどには「親の心、子の心」というお話をよくされた、ともお聞きしております。
 1983年(昭和58年)第8回の日本交流分析学会大会は川上会長、佐々木準備委員長のもと、弘前市で開催されました。先生は会長講演の中で、心身症、神経症の患者といえども、すべての症例に交流分析が必要であるということではないこと、したがって、どのような症例に交流分析をどのように利用すればよいのか、ということを研究することも大切である点、また交流分析の適応症、限界についても論及されました。
 さらに、医学の場での治療で交流分析を利用する場合と、個人の性格の成長をめざして教育面で利用する場合とでは、自らその方法も異なってくる点についても強調されておられます。
 今日、東北の地において本法を学ばれる方が多いのは、先生とその学徒のお力によるところが大きいのです。


石川 中 先生


(いしかわひとし)
 1971年に第13回日本心身医学会総会で、オハーン教授が招待講演で交流分析を紹介された翌日、京都市内において医学心理療法研究会で、再び同教授とじっくり話す機会が設けられました。石川先生と交流分析の関係は、先に述べましたオハーン教授との出会いに始まりました。先生はご存命中、心身医学会の中心的な推進役を務められたことは申し上げるまでもありませんが、日本交流分析学会でも創設期よりご尽力くださり、第5回大会では会長をお務めになりました。
 先生は精神分析はもとより、1970年代から80年代にかけて次々に海外から導入された諸種の心理療法と、ヨーガなど東洋的な、体から心に働きかけるセルフ・コントロール法とを統合する研究に励まれ、学会主催の講習会において、数回にわたり TAの実践をサイバネーション療法の立場からご指導くださいました。
 先生は近代医学は、理論主義、学説主義に偏る傾向があるが、真の医学、ことに臨床医学は患者中心、治療中心でなければいけないというお考えをお持ちで、機会あるごとに自らワークショップなどに参加され、治療者としての研修を積まれました。
 とくに、1979年に来日したグールディング夫妻のワークショップには感銘を受けられ、彼らの技法が TAとゲシュタルト療法の統合であるばかりでなく、さらにウォルピーの系統的脱感作療法などの行動療法的な技法も繰り入れられていることを看破されました。
 先生はグールディング夫妻の著書を愛読され、学説の展開よりも、患者との会話をそのまま記述する形で理論を解説する方法に、真に精神療法家の在り方を知った、と述べておられます。
 池見教授が1985年にお書きになった先生への追悼文にあるように、先生は抜群の才能とともに、純粋で、謙虚で、万人の心を温めずにおかないお人柄でした。日本交流分析協会の相談役をお引き受けになり、パネル、分科会にご出席になり、東京セルフ研究会ではサイバネーション療法を紹介され、市民との暖かい交流を続けることにも力を注いでおられました。

久米 勝先生

(くめまさる)
 先生は三菱電気教育課長時代より、産業訓練界の先駆者的存在でありました。日本交流分析学会の設立のとき以来ご参加くださり、学会の常任委員としてもご活躍くださいました。
 TAとの出会いについて、先生はその著書『自己改造法』(これは『カウンセラーのための104冊』という臨床心理、カウンセラーにとっては欠かせない手引書の中にも挙げられている推薦図書です)の中で次のように書かれておられます。
“1973年(昭和48年)の8月の某日、池見酉次郎教授に初めてお目にかかる機会が得られて非常な感激でした。
とくに感銘を受けたのは、「東洋には古来、仏教を通じて禅、ヨガ、断食、内歓法など優れた総合的な考え方の英知がある。これに西欧的な分析的、科学的方法に結びつけて、誰もが幸福を実感できるような道を開拓したい」という言葉でした。いわば東洋の英知と、西洋の科学との調和をどのようにするか、ということです。今後、わが国における TA実践の方向を啓示している言葉といえます。
かくして関係者(この中には一世出版の原田直治氏がおられます)とともに「TAの産業界への適用」に情熱を沸かせ、まず TAを産業界へ紹介導入することを決意しました。”
 先生は、TAを単なるテクニックと理解して安直に活用する傾向には、つねに警告を発し、TAの根底は深く、人間の本質に根差していると機会あるごとに述べておられました。先生が後にご紹介いたします「アカデミアTA」の創立された意図もここにあったに違いない、と考えております。
 先生は日本交流分析協会の大会にはしばしば講師として出講され、また日本交流分析学会の折りも発表演題の座長をお務めになりました。昨年の7月3日は、先生のお弟子さんである塾生たちの手によって、「TAの開発から35年、今その本質を見直す」というテーマのもと、久米記念シンポジウムが開かれたことは、ご記憶に新たなところであります。

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